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マルタ

正式名称は、マルタ語でRepubblika ta' Malta、英語ではRepublic of Malta(リパブリック・オブ・モールタ)。日本語の表記はマルタ共和国ですが、通称マルタと言います。マルタは、長靴のようなイタリア半島が、シチリア島を蹴っているとすると、その下に弾かれた小石のような位置にある南ヨーロッパの国で、首都はヴァレッタ、公用語は、マルタ語と英語で、地中海沿岸国では唯一、英語が公用語として使われています。 イギリス連邦と欧州連合に加盟しています。面積は約316ku、人口396,851人(2004)、人口密度1,256人/ku人(2004)の、地中海のほぼ中央に浮かぶ島国です。首都はヴァレッタ(人口約14,000人)で、マルタ、ゴゾ、コミノ等の島々で構成されています。

位置 南地中海
面積 316ku
人口

396,851人(2004)

人口密度 1,256人/ku人(2004)
首都

ヴァレッタ

政治体制 共和制
共用語

マルタ語/英語

通貨

マルタリラ(MTL)

為替 0.39 MTL =1$(2003.9)
GNP

9,210$(2003.9)

マルタの自然
マルタは地中海の中央部、シチリア島の南約93kmに位置して、主要な島はマルタ島とゴゾ島、コミノ島の三つであります。海岸線が変化に富むため、良港が多くありますが、地形は、低い丘陵や台地が多く、最高地点は、マルタ島内にありますが、標高は253mであります。気候は地中海性気候のため、温暖で雨が多い冬季と暑く乾燥した夏という特徴を持っています。
マルタの言語
言語はマルタ語と英語が公用語として使われています。また、イタリアから近いため、イタリア語もかなり通じます。宗教はローマ・カトリックで、国民の98%を占めています。
マルタの歴史
新石器時代から人間が生活していたといわれ、巨石文明の跡が残っています。紀元前1000年頃現在のレバノン一帯が起源とされるフェニキア人が渡ってきて支配者となりました。マルタ語とレバノンの言葉が互いに意思疎通ができるほど似ているのはそのためであります。 紀元前400年頃カルタゴの支配を受け、その後ローマに支配されますが、その頃から既に地中海貿易で繁栄していました。 870年にアラブ人の侵攻を受け、1127年にノルマン人が占拠するまでイスラム帝国の支配下にありました。 その後、1479年にスペインの支配下に置かれ、1530年には、1522年にロードス島を追われた聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)の所領となりました。1565年にマルタ騎士団は、オスマン帝国からの攻撃を受けますが、34ヶ月の攻防が行われた後、オスマン帝国はスルタン・スレイマン1世の死によって撤退しています。現在の首都ヴァレッタは、この時のマルタ騎士団の団長の名前に因んでつけられています。エジプト遠征途上のナポレオンによって一時占領されますが、その没落後はイギリスの支配下にあり、地中海を経由してインドにいたる航路上に位置することから重要視されていました。特に第二次世界大戦中にはエジプトへの連合国側の輸送路の途上にあり、またイギリス海軍の拠点としてイタリアと北アフリカとを結ぶ枢軸国側の輸送路を脅かす存在となったために空襲に晒されましたが、最後まで陥落することはありませんでした。1964年イギリスから独立し、イギリス連邦内の独立国(コモンウェルス国家)となり、さらに1974年12月13日には、イギリス連邦内の共和国となりました。2004年5月1日に欧州連合(EU)に加盟しています。
マルタの政治
国家元首である大統領は、任期5年で、議会によって選出されます(複選制)。前回投票は、2004年3月30日。全ての執行権は大統領によって直接的または間接的に行使されますが、基本的には儀礼的・形式的地位です。行政府の長である首相は、議会選挙後に第1党の党首が大統領により指名され就任します。議会の信任を失った場合は、辞職します(議院内閣制)。議会は、一院制。原則として65議席。任期5年で、比例代表制選挙により選出されます。ただし、選挙の結果、いずれの党も単独過半数の議席を得ることができなかった場合は、もっとも得票率が高かった党に対し、さらに最大4議席を追加配分し、単独過半数を確保させます。これは、二大政党制が確立しているマルタにおいて、例えば、第1党が32、第2党が30、第3党が3という結果になった場合、国民全体の中で少数の支持しか得ていない第3党が連立政権の発足および維持において過剰な影響力を行使しうる事態に陥るのを回避することにより、民意の国政への適切な反映および政局の安定を図る制度であります。前回投票は2003年4月12日。得票率は、国民党 (PN) 51.7%、マルタ労働党 (MLP) 47.6%、民主的選択/社会正義同盟 (AD) 0.7%。獲得議席数は、国民党 34、マルタ労働党 31。
マルタの経済
18世紀までは、綿花とタバコの栽培、造船業が中心でありました。造船業は、戦時中、イギリスにとって有用なものでありました。1869年のスエズ運河の開通後は、船舶の寄港地として賑わう事となりましたが、19世紀末以降、大型船の就航により、燃料補給のための寄港の必要性が減少し、マルタの経済は縮小しました。現在のマルタは、エネルギー資源は産出せず、石灰岩が産出されるのみであります。食料自給率も20%にすぎませんが、経済的に有利な点は、地中海の中央に位置することと労働者が勤勉なことであります。貿易を中心とした経済となっており、電子産業や繊維産業が行われています。また、観光業にも熱心で、2004年5月1日には欧州連合にも加盟しています。
マルタの教育
3歳から幼稚園に通い小学校は5歳からです。16歳まで義務教育で公立の授業料は無料です。中学は5年制で3年になると上級学校か職業学校のどちらかを選びます。約60%が進学します。 小学校の間は保護者が学校への送迎をします。共稼ぎの両親も増えているので、送迎はおじいちゃん、おばあちゃんの役目になっているようです。
マルタの文化
すべての地中海航路が交差する位置にある島国ということから、マルタの人々は多国語を使い分け、その海を愛する気持ちからも分かるように大変親切で、心からもてなし、陽気で平和を愛する国民であるという評判を得てきました。マルタの特色は、本質的には地中海の気質にヨーロッパの文化が加わったことに由来しています。この国のユニークさは、地中海の真ん中に位置しているという点から、何世紀にもわたって地中海を水路にして往き来していったあらゆる重要な文明と、マルタが互いに影響しあってきたことによるものです。一番初めにこの島に住み着いた人々はシシリー島からやって来ました。それからこの島はフェニキア人、カルタゴ、ローマ人、ビザンチン帝国、サラセン人、ノルマン人、聖ヨハネ騎士団、フランス人、そして最後はイギリス人と様々な人々の手に委ねられてきたのです。これらのすべてが考古学的あるいは建築学的にも興味深いマルタの財産でもある遺跡たちに寄与してきたのです。現在の首都ヴァレッタからかつての首都ムディナ、ハイポジウムからカタコンベまでをたどってみると、それは六千年以上に及ぶ伝統と遺産のなかでの歴史と文化の激しいぶつかり合いの推移を見るようである。このような多くの遺跡が、たった316平方キロメートルの広さのこの島のなかに存在することは信じがたいことでしょう。そして、典型的な地中海地方特有の景色−「低い丘、広い段々になった土地」−は、素晴らしい海岸線で囲まれており、天然の港、大小の入り江、高い崖、砂浜となって湾入しています。そこを取り巻く海は汚染を知らず、青く透き通り、どこまでも広がっているのです。 地中海を背景に、一年中温和で健康的なすばらしい気候は、降り注ぐ太陽と海から陸へと吹く涼しいそよ風の絶妙なバランスの心地よさを味わうことができます。 際立った環境と文化の結びつきの他にも、マルタには余暇を過ごそうとやってくるあらゆる人々のために、スポーツ、エンターテイメント、ショッピング、そして健康的でおいしい食事など、様々な楽しみ方が用意されています。 古来よりマルタの入口となっているのはグランドハーバで、地中海において最も美しく、自然の水深のある港のひとつです。途切れることなく連なった巨大な要塞に取り囲まれた様子は、それだけで古代世界の魅力とわくわくするような歴史が現代へと結びつき、観光のメイン・アトラクションとなっています。実際、地中海を訪れる定期クルーズ船が必ず停泊する所のひとつとなってきているのです。
マルタと日本との関わり
最初にマルタを訪れた日本人は1861年に幕府の使節団で、ヨーロッパへの途上マルタに寄港しており、その中に福沢諭吉がいた可能性があるそうです。昭和天皇が皇太子時代の1921年欧州ご旅行の途中マルタを訪問されました。この時記念植樹された木がサン・アントン・ガーデン公園に茂っています。マルタには第一次大戦で戦死した日本海軍将兵の墓があります。当時マルタ島はドイツのUボートに海上封鎖されて物資が不足していました。英国と同盟国にあった日本は巡洋艦「明石」を旗艦とし8艘の艦隊を出動させ、英国艦隊を援護し、またUボートと戦闘もしました。1917年6月駆逐艦「榊」は敵の魚雷攻撃に遭い大損傷を負い59名が戦死しました。カルカラのカプチン共同墓地の一隅にその墓碑があり、今でもマルタ人は感謝を込めて、勇敢な日本海軍兵士の栄誉を讃えています。